阿修羅ガール/舞城王太郎


阿修羅ガールカウンターカルチャーに対する業界の期待に対する保守派のぼやき

モブ・ノリオが『介護入門』で受賞した第131回芥川賞の候補の中にやっぱりこのひとの名前があった。
やっぱりというのは、サブカル系といったら語弊があるかもしれないけど、媒体を問わずそういう層からの支持をよくみたし、豊崎由美を始めとする何人かの僕が参考にする評論家も推しており、ここで受賞することはもう決まり事のように思っていたからだ。ちなみにその候補作は未読。
(モブ・ノリオの方にも、というかそっちにはより当然受賞の空気があったようだけど、僕は知らなかった)

このひとの特徴を成す大きなポイントとしては、やっぱり古い本読みとからすると耐え難いまでに軽い語り口調が挙げられる。 「いくねえよ」とか「馬鹿じゃん」とか。
そのおもしろさみたいなものもわからないことはなくて、例えば『熊の場所』収録の表題作で子供にその口調で語らせたのははまっていて、違和感もそれほど感じなかったけれど、デフォルトだとなると話は違う。
その『熊の場所』でも2本目で今度は高校生に「消えろよ猿」「頼むってマジで」とこられていきなりうんざりしたし、別な本、例えばこの『阿修羅ガール』を手にとってもそう。僕には辛い。言っている内容は通じるけど、飽きると邪魔くさい。電車の中とかで、ガキのしゃべくりを聞かされてる気分。地の文だけは普通に書いて欲しくなる。

この本、手にとってぺらっとめくってもらえばわかると思うけど、侍魂を思い出すようなフォント弄りもしてくる。それは裏技中の裏技ではないか。ストーリー自体に影響するようなよほど決定的な理由がなければ使うべきでないと思う。

また、この作品の話じゃなけいけど、物語の中で村上春樹とか、ダウンタウン、しかもひとりごっつまで言い出しちゃうところもどうかと。 人の表現したことをそのまま部品として利用するわけだ(これを個人的にオブジェクト指向と呼んでいる)し、それをアリとしても引用元があまりに新しい。 よく好んで使う「天の声」(巨大掲示板)あたりはギリギリのラインで、すぐに廃れることはないだろうし、廃れた後に読んだとしても、時代感を記録するためには大いに有効だと思うけど、それより下のラインの認知度や賞味期限のことを引用しまくると、作品が読み捨ての域を出ないものになってしまう。

おそらくこれらの手法は、僕のような古い本読みを対象にしてでのことではなく、”普段本を読まない層”(わらい)を狙っているのではないかと思う。 ちょっとわかりにくい言葉や表現を使っても、それを理解できないキャラクターを魅力的に書くことで、わからなくてもいいんだと思わせる。引かせない。 もしくは古い本読みを鼻で嗤うスノビズムのため。 とにかく新規開拓に大いなる野望を燃やしているのではないかと。

そういうことを特別悪いとはいわない。閉塞感みたいなものも感じる今日この頃、なにかインパクトのあるものを求める気持ちもある。 小説がテレビ、マンガに劣ることのない魅力的な媒体であるということを伝えるべく、とっつきの悪さみたいなものを払拭する戦いには意義がある。 だけど、ここまで露骨なものをこぞって推しているのをみるのも少し気持ち悪い。ひとつこの本の出だしを引用する。

> 減るもんじゃねーだろとか言われたのでとりあえずやってみたらちゃんと減った。私の自尊心

当たり前にも程があることで、おそらく作者本人だって特別凝ったことを書いたつもりはないだろう。さらっと始めただけだと。 しかしその視点が云々と評価している文を、驚くことに複数回見た。僕は特別沢山の書評を読む人間ではないのに。
書評に限らない話だけど、どうでもいいことを持ち上げると、そこしか褒めるところがないと思われるわけで、その意味ではあまりに必死な持ち上げだなあと引くわけだ。
「だからミステリー読みはバカにされる」論と似たような思いで、サブカルも過剰な媚びもあまり歓迎しない。

そもそも目立つのが方法論的なことだというのはやはり好ましくない。なぜ僕が小説を読むのかと言えば、ストーリー中毒だからであって、手法なんて二次的なこと。
舞城王太郎は計算高く、頭のいい人だというのはよくわかるのだけど、そもそも小説を書こうと思った初期衝動はなんだったのか。

なお、この作品を取り上げることにしたのは、所謂舞城ワールドの典型だと思ったことと、三島由紀夫賞受賞作ということで、それなりに認知されていると思ったから。

(ホンマ:04/11/01)

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