おひっこし/沙村広明


おひっこし いつかノスタルジーとなって泣かせに帰ってくる笑い

『おひっこし』というマンガを読んだことがないなら早く読んだ方がいいぜ。オレの血はそいつでできてるわけじゃないけど、なにせ時事ネタが多いから。
これを書くに当たって読み直してみたところ、殆ど全てのページで笑うことができた。凄いテンションだ。しかし、3年後はどうか、10年後はどうだろうか。
例えば「本番一発着床終了」。カギ括弧されていることもあるからか大丈夫だ。しかし「鉄棒少女のような足どり」。これは線上だ。3年後と言わず来年笑えなくても不思議じゃない。
そう考えると、漏れなく楽しんだつもりでいたけど、本当はスルーしたギャグがあるのかもしれない。どんどん不安になってくる。いつかきっと、このマンガでまったく笑えない日がくるのだ。
僕が舞城王太郎をもうひとつ認められないポイントに余りにも賞味期限が短そうだというのがあるのだけど、それからするとこの作品など酷いものだということになる。でも好きだ。
これは言ってしまえば小説とマンガの違い、というかマンガの強さだ。読み返すのにかかった時間30分足らず。その短時間で当時の大学生活の空気を味わったのだからもの凄い情報密度だ。 小説ではこうはいかない。一枚の紙で喚起できるイメージの量で決定的に劣るのだ。
もちろん小説にはそれでしかなしえない表現がある。喚起するイメージという比較でいえば、マンガがどうしてもその絵に縛られてしまうのに対し、小説は無限だ。
だけれども当たり前ながらマンガでも文字は書ける。沙村広明のように最高レベルの画力と言語感覚を持ち合わせたひとがやれば、やはりマンガ以上の表現手段はないのではないかと思ってしまう。少なくとも空気を閉じこめ、記録するることにかけては。

蛇足ながら、僕が沙村広明を知ったのはきたがわ翔が『無限の住人』を評して絵の天才が出てきたと書いたのを読んでなのだけど、そのきたがわ翔が書いても書いても内容が伴ってこないで僕の興味を惹かなくなったのは皮肉だと思う。

これは基本コメディだけど、僕がきちんとジャンル分けするならば青春群像だ。1990年代に大学生活を送り、そこに音楽があり、女の子がいたひとたちの。マンガやテレビから取ったネタでお互いを揶揄し合ったり笑い合ったひとたちの。
おそらく沙村広明は照れ隠しもあってこんな手法をとったけど、そこにはしんみりした心情もたっぷり盛り込まれてる。僕はそう思っている。全体の10%もないシリアスシーンこそ大事だったんじゃないかと。

ちなみにこのマンガの舞台は八王子だ。僕は八王子市民でも日野市民でもないし、この作者の大学でも、その近くの大学の出身でもない。そのちょっと先にある大学でもない。だけど、何かと縁があってその辺りは何度も通っている。だから作中の「この世の果てのような眺め」 はよく知っている。やがて「この世の果て」じゃなくなるだろうそこを通るたびに僕はこの本を思い出す。
いつかくるこのマンガで笑えなくなる日、そのとき僕は懐かしさで泣くのかもしれない。

(ホンマ:04/11/08)

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